もうすぐ2年になろうとしています。
そして彼と全くの接触を経ってからも、もう1年以上のときが流れています。
私は、今年の春に大学院を卒業し、就職。今は社会人一年生として、日々働いています。
彼と出会った事も、こんな事があった事も、すべて絵空事のように感じてしまうほど、私は遠いところに来てしまった気がします。
でも、彼と私のこの話は、今年の6月末に意外なオチを持って、終結したように思います。それは私にとっても、あまりにも意外な接点で、そしてそれはちょっとした因果を感じるものでした。その事をここに書くべきか書くまいか、少々迷いましたが、今でもこのブログを読んでくれる人がいるという事を確認したため、やはり書くべきだろうと思い、久しぶりに更新する事にしました。
このブログにも書いた事があると思いますが、私は病気の人のボランティア活動を熱心に行っていました。学生の頃から就職した今年の春以降も、私はある患者さんの家に通い続けました。それぐらい、私にとってこの患者さんとのかかわりは大切なものでしたし、患者さんもまた、私の存在を心から望んでくれていました。だからこそ、私は論文の締め切り前であっても、審査会の直前であっても、患者さんの家に通い続けたのです。
しかしながら、その患者さんが6月末に突然旅立ってしまいました。確かに、いつ亡くなってもおかしくはない病気だったとは思いますが、私も家族の人もまだまだ生きられると思っていましたし、ご本人さんも意志の強い方でした。様態が急変したのは、軽い肺炎を起こしかけて、入院したときでした。そんな風に入院する事は3ヶ月に一度くらいありましたし、その週の週末患者さんの所に私も行く事になっていて、退院は明日に迫っていました。つまり、懸念されていた肺炎はすっかりよくなっていたハズでした。急変は、退院を目前に控えた朝に突然に起こり、患者さんの命を奪いました。寝耳に水でした。
その日の夜、知らせを受けた私は強いショックを受けました。3年間も通い続けた患者さんが亡くなったのですから、無理はありません。まだまだ出来る事があったかもしれないと思うと、その気持ちは直一層強くなりました。でも、その患者さんは私が悲しみ続ける事を望んでいないこと、メソメソしていないでこれから患者さんのためにできることを考えるべきだと思い、私は何とか気持ちを立て直す事にしました。
その週の週末、私は既に火葬を済ませた患者さんと向き合いました。本当は今日、久しぶりに患者さんと会って、ボランティアする予定だったのにと思うと悲しくなりました。
迎えた月曜日、それはほんの出来心でした。最後に、患者さんが息を引き取った病院(私も何度かいったことはありますが)で、どの先生が看取ったのかを確認しようと思いました。それで、私は自分の心に区切りをつけようと思ったのです。しかし、その病院のホームページにはありえない名前があったのです。
そう、デブ彼でした。
しかも、5月に赴任したばかりでした。
彼が、患者さんの最期を看取ったかもしれないと思うと、私はいたたまれなくなり、いいようもない虚無感に襲われました。最悪の事態すら思い描いたほどです。例年に無く蒸し暑い6月に、パンパンに膨れた風船のようなデブい彼が患者さんの病室を訪れていたのかと思うと、それだけで気分を害したのではないか・・・とか、ひどい事を考えたりもしました。よりによって、こんなときに、何で私が関わってくる患者さんのいる病院に赴任してくるのかと、運命を呪いたくなりました。
でも、私は患者さんは天寿を全うしたと、信じる事にしました。
それが彼の名前と関わった最後の記録です。私がこの病気の患者さんと関わり続ける限り、そして彼が医者である限り、私たちの接点はどこかに発声する可能性はあるかもしれませんが、私はもう二度と、この人と関わるつもりはありません。しかしながら、人のつながりというのは、本当に恐ろしいものだなと実感しました。それは、私にとってあまりにも意外な結末でした。。。