最近、あんまり寝ないことに、身体が少しずつなれてきているような気もする。朝も勝手に目が覚めて、特に起きるのが辛いということもなくなってきた。日中の眠気はあるけれど、それにしたって、ちゃんと寝ているときと、そう大差はない。寝なくても、大丈夫なら、寝ないですごせた方が、時間を有効に使えるような気がする??
伝えることも、伝わることも基本的には、いつも難しいと思う。相互関係が生じる以上、このようなジレンマは常に付きまとう。最近思うことは、何かを一生懸命伝えようとも、伝わること、受け入れられることは限られているということだ。いくら努力したところで、ある一定のレベルから向上することはない。相手のコップの大きさが決まっている以上、入る水の量が決まっているということだ。そして、それはお互いにいえることだろう。
私は、一度満されたコップの水は、そう簡単には減らないと思っていた。満たされるまでの時間、労力と同じくらい、残っているとは思わないが、それでも徐々に、気がつかないうちに減っていくものだと思った。でも、現実はいつもそうじゃない。あっという間に水はこぼれ、あっという間に水は蒸発し、そして一度減った水は、おそらくたいていの場合、戻ることはない。
多分、この現象は、性差も年齢差もないのではないか、というのが最近の見解だ。相互関係のあるところに、これは起こる。
誰かとつながった時の共有感/一体感 と
途切れた時の焦燥感/虚無感 ・・・の繰り返し。
そうなることを学習しているのに、どうしてか人とつながりたいと思い、人と関わり合いながら生きていく。
どうしてだろう?
コップの水がこぼれないような相手がいると信じて疑わないからか?一体感がずっと得られる相手を探し求めているからか?それとも、単に今ある隙間を埋めたいだけだからか?わかりあいたいから?
なんなんだろう?
多分、よくわからないけど、私たちは何かを伝えることが好きなのだと思う。伝え方、伝わり方は、それぞれだけど、言葉とか身体とか空気とか・・・いろいろ手段もあるけれど、何となく、伝え合いながら、時々得られる一体感や共有感を潜在的に欲しているのだろうと思う。
へその緒を切られてから、一人この世に投げ出された私たちは、潜在的に、へその緒のような誰か・何かのつながりを探し求めているのかもしれない。
・・・なーんて、ちょっとだけ考えてみました。。。